整体法講座 Story


本講座主宰者である西田が、いかにしてサラリーマンから整体師になっていったか。
いかにして心身楽々堂・整体法講座が誕生し、育ってきたか。
その経緯や過程を記しておきたいと思います。
これから整体を学ぶ方、独立開業を目指す方に、何か参考になれば幸いです。

なお、西田の経歴や生い立ちについては、心身楽々堂のホームページに掲載をしている「心身楽々堂 Story」をご覧ください。
心身楽々堂 Story

本ページは、制作途上です。時間のある時に、少しずつ執筆をしております。そのため、たいへん読みづらいかと思いますが、何とぞ容赦願います。

前兆、導き、行動

私は、24年間、ひとつの会社に勤務していた。
サラリーマンを続けることに疑問を感じつつも、どうすればいいかわからない。
転職は、何度も試みた。
しかし、どこにも自分の求める働き方、生き方が見当たらなかった。
武道稽古、精神世界、オートキャンプ、コーチング
興味のあること、好きなことを追い続けた先に、その道はあった。

整体の道への導き

2008年元旦。
当時、私は、ある企業に勤務するサラリーマンであった。

10年近く苦しんだ、うつ。
この頃は、そこから脱しつつあった。

年始に、次のようなブログ記事を書いている。
http://hotshark.exblog.jp/6626751/

この時点では、私の中には整体師に転身するという選択肢はなかった。
ましてや、脱サラなど夢のまた夢であった。

しかし、この記事中には、「武道稽古がきっかけとなり、最近は身体調整や健康法に興味が発展しつつあります」と書かれている。
今にして思うに、この時すでに、導きがあったのだと思う。

この直後に、兵庫県に住む、合氣道の友人からメールをもらった。
彼は昨年、とても不思議な整体を学んだという。
そして、今年はこの整体をより深く学び、独立開業するつもりだという。

整体?独立開業?
いったい、どうしてそんなことができるのだ?

私は、サラリーマン生活に、虚しさと限界を感じていた。
想いと志をもって入社した企業であったが、組織の中で働くとはいかなることか、嫌というほどわかってしまっていた。
自分の将来に、夢も希望も持てなかった。

そんな私に、突如、整体師への道が示されたのは、あまりに絶好のタイミングであった。
メールをくれた彼に、詳しく話を聞いた。
彼が教えてくれたのが、日本回復整体総合学院であった。

脱サラ、転職のチャンスに心が躍る

さっそく同学院のホームページを見た。
一見、うさん臭そうに見えたが、嘘は書いていないと直感した。

たくさんの人間が、この学院で学び、整体院を独立開業し、大きな収入を得ていた。
その中には、私と同じ企業勤務のサラリーマンもいた。

大好きな分野である身体調整や健康法を自分の仕事にし、それで生活ができる…
夢のような話が、そこにはたくさん載っていた。

また、同学院の学院長が、著書を出版していた。

整体業界で年収2000万!の成功法則

何ともいかがわしいタイトルと表紙に若干の嫌悪感を覚えつつも、書店で買い求めた。
そして、貪るように読んだ。

今まで考えもしなかった、整体師という仕事。
しかし、もしかしたら、ここに自分の求めているものがあるかも知れない…
脱サラ、転職のチャンスに心が躍った。

技術セミナーに申し込む

同学院のホームページに、技術セミナーの告知があった。
どうやら、このセミナーが入口になるらしい。
そして、1月末に京都で開催されることが書かれていた。
わずかだが、定員に余裕があった。

「人生を変えるチャンスだ」

しかし、セミナー参加費の値段を見て、腰が引けた。
なんと、約50万円!
たった二日間のセミナーで、この値段は破格だ。
今までの常識とは、一桁違う。

さすがに迷った。
第一、そんなお金、用意できない。

しかし、同学院のホームページに書かれていた次の言葉が、私の心をとらえた。

成功の反対は、失敗ではない。
成功の反対は、行動しないことである。

あらゆる手を尽くして、お金を集めた。
家族には内緒であった。
話せば、猛反対されるに決まっているからだ。

数日後には参加申し込みを終え、受講料を振り込んだ。
直接この目で確認もしていない、海のものとも山のものともわからないセミナーに、50万円もの大金を振り込むのは、そうとう勇気が必要だった。
郵便局で、手足がガタガタ震えたのを覚えている。

しかし、この時の勇気と決断が、私の人生を大きく変えた。
よく行動したと、当時の自分をほめてやりたい。

整体を学び始める

さて、私は日本回復整体総合学院で整体を学び始めることになった。
今は見る影もないが、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いのある、超人気の整体学校であった。
その最盛期に学ぶことができたのは、とても幸運だったと思っている。

技術セミナーへの参加

2008年1月末、京都で開催された二日間の技術セミナーに参加した。

これは、回復整体の基幹の技を伝授されるセミナーである。
受講すれば、一通りの施術ができるようになる。

受講生は、私を含めて12名(プロ2名、素人10名)であった。
この10名のうち、プロの整体師になったのは、私の知る限り2名である。
50万円の受講料を支払っても、8割は断念するのだ。

二日間のセミナー終了後のインタビュー動画が残っている。
参考までに、掲載しておく。


運命の出逢い

技術セミナーの一日目、副学院長の村松幸彦先生が、静岡から駆けつけてくださった。

当時、村松先生は、この学院で学ぶ者にとっては神様のような存在であった。
お会いできるとは思っていなかったので、驚くと同時に、とても嬉しく思った。

昼食時や懇親会で、私は村松先生の横に陣取り、あれこれ質問した。
人目をはばかり、遠慮している場合ではなかった。

村松先生の口から出た衝撃的なひとことが、大きく響いた。

「俺は、この整体で日本を変えたいんだよ」

これだ!
私は、やっと自分の求めていた道を見つけた!

感動のあまり、涙があふれて止まらなくなった。
こんな経験、初めてであった。

時間はかかるかも知れない。
でも、いつか、整体師として独立開業する。
この時、決意をした。

施術練習をする

1月に開催された二日間の技術セミナーを終えた直後、村松先生からハガキが届いた。
直筆のハガキだったので、とても感激した。

文中には「たくさんの人を診て欲しい」と書かれていた。
言われるまでもなく、練習しないと技術は身につかないし、真価がわからない。

だから、しのごの言わず、施術の場数をこなす。
まずは、そこから始めようと思った。

施術練習は、主として次の3通りの方法をとった。

  • 1)自宅に知り合いを呼ぶ
  • 2)知り合いの自宅を訪ねて行く
  • 3)勤務先で同僚にお願いする

施術経験を積むことは、何よりも重要である。
ぜひ以下のページを参考にして欲しい。

独立開業の鉄則/施術回数をこなす

技術の素晴らしさに驚嘆する

施術練習をする中で、目覚ましい結果が出ることが多々あった。
一例をあげると、次のようなものである。

  • 20年来の腰痛が、すっかりよくなった
  • 長年悩んでいた不眠が治った
  • 50肩で仕事を辞めようと思っていたが、治ったので辞めずに済んだ
  • どこへ行っても治らない身体中の痛みがなくなった

驚いた、素人の私が施術をしても、こうやって結果がでるのだ。
まるで夢のようだった。
本当に素晴らしい技術だと思った。

この頃から、私の中では、この技術を人に伝えたいという気持ちが芽生えていた。

心に火がつく

技術セミナーを受講し、施術練習を開始した当初、私はプロの整体師を目指すのは、もっと先のことと考えていた。
少なくとも一年くらい施術経験を重ねて、確信が持ててからと考えていたのだ。

しかし、それを揺るがす人間がいた。
技術セミナーで一緒に学んだ、一人の先生だ。

彼は、すでに業界経験20年以上のベテランだった。
国家資格を有し、さらに家が何軒も建つほどのお金と時間と労力を費やして技術学んだ。
しかし、彼はそれらすべての技術を捨て、この整体技術一本に切り換えた。
よって立つ理論がまったく異なるため、そうせざるを得ないからだ。

彼は、勇気をもって決断し、行動した。
最初は経営が落ちたそうだが、素晴らしい症例を次々にだし、経営はV字回復を遂げたそうでである。

同じ技術を学びながら、彼は日々、多くの人さまの役に立っている。
それに対し、私は週に数名しか施術ができていない。
サラリーマンであることを言い訳にしているようで、とても恥ずかしく思った。

このままではダメだ、ただでさえ差があるのに、ますます差がつくばかりだ。
本気でこの道を歩むなら、サラリーマンを辞めるしかない。

そんな彼の存在が、私の心に火をつけてくれた。

前述の通り、プロの整体師を目指すのは、一年くらい後と考えていた。
しかし、それまで待てない、いますぐ行動したい、そう思うようになった。

その後、彼とは行く道が違ってきたため、現在は交流はまったくない。
しかし、彼の存在がなかったら、私はおそらくプロを目指していなかったであろう。
火をつけてくれた彼には、今でも心から感謝をしている。

長期コースへの編入

とはいうものの、悩みに悩んだ。
本当に食べていけるのか。
学費はどうするのか。
家族をどう説得するのか。

当時、私はうつ状態からは脱してはいたものの、日々、会社の仕事で悩んでいた。

これが、本当に自分がやりたい仕事なのか。
一生、続けていくのか。
この仕事は、本当に人さまや世の中のためになっているのか。
定年後、自分は何をして生きていくのか。

それに対して、整体師の仕事は、自分の天職だと思った。

自分の身ひとつで、生きていける。
一生、現役でいられる。
真に、人さまのお役に立てる、社会に貢献できる。
エネルギーも、資源も、無駄にしない。

長年、探し求めていた道。
それがそこにあるのに、歩まない手はない。

ついに私は、会社を辞める決意をした。
2008年の4月のことである。

家族に対しては誠心誠意説明し、理解を求めたものの、無理であった。
でも、やるしかない。

同学院の長期コース(当時の名称は「達人コース」)へ編入することにした。
学費は、約300万円(技術セミナーと併せて)だった。

なぜ、そんな高額を支払ったか。
それは、どうしても村松先生に教えて欲しかったからである。
村松先生から学ぶには、そこへ行くしかなかった。

プロを目指す

前項「整体を学ぶ」と時期は重なるが、辞職と開業準備について述べておく。
脱サラを検討されている方には、とても参考になると思う。

ワンルームマンションを借りる

思い立ったら、即行動。
2008年2月の末に、ワンルームマンションを借りることにした。
練習場所確保のためだ。
また、いずれここで開業しようと考えたのだ。

サラリーマンから整体師へ。
それを実現するには、自分が大きく変わる必要がある。
そのために、退路を断ち、自分を追い込み、拍車をかける。
そんな想いもあった。

お金はなかった。
でも、やるしかなかった、進む以外になかった。

マンションを借りる

村松整体塾で学び直す

私の整体の師、故 村松幸彦先生は、日本回復整体総合学院の副学院長であった。
しかし、2009年の春、村松先生は初心を貫徹すべく、その座を辞し、学院を去った。

私の過去のブログに、当時のことを記事にして投稿している。
参考までにリンクをご紹介しておく。
http://hotshark.exblog.jp/8417905/

回復整体「達人会」の退会

当時、達人コースOB会である「達人会」へ加盟していました。
日本回復整体総合学院を卒業後、引き続きフォローを受けるためには、そこへ加盟する必要がありました。
ところが、当時、会費が月額38,000円と非常に高額でした。
それゆえ、その支払いを継続できず、離脱する会員もたくさんいました。

私も開業はしたものの、思うように経営が伸びません。
それゆえ、離脱せざるを得ないのも、時間の問題だと感じていました。

そんな時、村松先生が同学院の副学院長を辞めたという知らせがありました。
村松先生に学びたいがゆえに選んだ回復整体だったのに・・・
まったく信じられない思いでした。
しかし、村松先生と連絡を取ることもできません。

学院長の説明によると、「村松先生は、水のネットワークビジネスに手をだし、それを学院に持ち込もうとした。そのため、学院を辞めていただいた」とのことでした。
どうしても信じられませんでした。
しかし、尊敬する学院長がそうおっしゃる以上、信じざるを得ません。

数週間後、村松先生が、私の整体院へ電話をくださいました。
久しぶりにお声を聴いて、とても嬉しかったです。
先生は、今度、大阪へ行くので、会おうとおっしゃるのです。

私は、水のネットワークビジネスが気になっていましたが、会うことにしました。
村松先生が学院を辞めた真相を、直接確認したかったからです。

そして、村松先生に再会し、真実を聴きました。
驚愕し、大きなショックを受けました。
水のネットワークビジネスは、でっち上げでした。
村松先生は、全身全霊で、教え子たちを支えたい、守りたい。
そして、この素晴らしい技術を広め、日本を変えたい。
その一心を貫くがために、大きなリスクを背負って、学院を辞したのです。

学院は、お金が大切。
村松先生は、人が大切。

その想いの違いが、村松先生辞任の本質だと私は思います。
私は、達人会会長に自分の考えと意志を述べ、退会することにしました。
虚飾で糊塗された集まりに所属することは、本意ではないからです。
その経緯は、以下のブログ記事に記載しております。
ご興味がおありの方は、お読みください。
http://hotshark.exblog.jp/8166781/

<注記>
現在、「達人会」は廃止されています。
また、当時、全国にいらした20名を超えるサテライト校長先生たちは、一人残らず全員、回復整体を離れておられるようです。
そのことが何を物語るかは、みなさんでお考えください。

村松整体塾の立ち上げ

達人会を退会して以降、私は村松幸彦先生より直伝を受けました。
できる限りの時間を先生とともにし、技だけでなく、さまざまなことを学びました。
そして、村松先生とともに歩んでいくことを約束しました。

そのひとつが、「村松整体塾」が立ち上げです。
私は、補助講師として、大阪で開講されるすべての講座に参加いたしました。
塾では、氣や魂の話など、学院時代には触れなかった分野に言及をされていました。

私は、テキストの制作を担当させていただきました。
その過程で、疑問点や不明点を、すべて村松先生に確認しました。
曖昧なことをテキストに書くことは、できないからです。
これは、本当によい勉強になりました。

また、基礎技術のみ、入門者の指導をさせていただきました。
教えるとは、学ぶこと。
それに気付かされ、成長する機会をいただけたと、たいへん感謝しております。

塾の説明会も、たびたび開催しました。
その際に、村松先生の施術を、たくさん見せていただきました。
また、村松先生のお話をたくさんお聴きしました。
これらの過程で学んだことは、達人コース時代の比ではありません。
本当に、たくさんの大切なことを教えていただきました。
村松先生には、何と感謝申し上げてよいか、わかりません。

村松先生の急逝

村松整体塾が立ち上がって、半年が経過しました。
この短期間で、門下生が50名を超え、塾の運営も軌道に乗ってきました。
そんな矢先、信じられない知らせが舞い込んできました。
2010年1月15日のことです。

「村松先生が、急にお亡くなりになった」

我が耳を疑いました。
嘘だろうと思いました。
あるいは、たちの悪い冗談かも知れない。
いずれにせよ、あってはならないことです。

しかし、嘘でも、冗談でもありませんでした。
静岡県焼津市のご自宅へうかがうと、先生は棺の中で眠っておられました。
つい先日、元気で講座をして、一緒に飲んだばかりでした。
先生のお姿を拝見し、私は、また号泣いたしました。
そして、大声で叫んでいました。

村松先生、不肖の弟子の西田です。
先生のご遺志は、私たち弟子が命をかけて守り、引き継ぎます。
どうか安心して旅立たれてください。
この世でのおつとめ、本当におつかれさまでした。
そして、今まで本当にありがとうございました。

村松整体塾の講座再開、そして独自の道へ

村松先生より、指導者として「師範代」を認定されていた者が、当時、私を含めて、全国に8名おりました。
その者たちが協力し、残された門下生たちのために、講座再開を決意しました。

何度か集まり、講座内容を討議し、煮詰めました。
しかし、講座は再開できても、継続は無理だと、私は感じておりました。

村松先生から引き継いだものは、師範代それぞれに異なります。
ゆえに、それを講座として統一するのは、非常に無理が生じてきます。
講座内容が、最大公約数的になってしまうのです。
そのような内容を教えても、プロの整体師として生きていくことはできません。

村松先生は、門下生一人一人を、本当に大切にされていました。
誰に対しても、心を尽くす。
そして一人残らず全員が、プロ整体師として堂々と仕事をし、幸せになる。
そのことこそが、先生が命がけで取り組まれていたことです。

しかし、今のやり方では、その想いが伝えられない。
塾というカタチは残っても、村松先生との約束が果たせない。
村松先生の願いが、実現できない。

そう強く感じた私は、2010年9月に塾を離れることを決意しました。
身勝手だと強い非難を受けましたが、私はそうせざるを得なかったのです。
村松先生の命がけの想いを守りたい、その一心でした。

それを知った数名の方が、私に「整体を教えて欲しい」と言って来られました。
少し躊躇しましたが、これも村松先生のお取り計らいだろうと感じました。
ゆえに、ごく個人的に、教えることにいたしました。
この取り組みが、後に「心身楽々堂・整体法講座」となりました。

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