【合氣と整体】

30代半ばで、合氣道の稽古を開始した。
その時にご指導くださった先生は、「触れ合うことにより、相手を思いやることを学んで欲しい」とおっしゃっていた。
当時は何のことか、さっぱりわからなかった。

その先生は、50代半ばで整体師に転職された。
私が整体師という仕事に興味を持ったのは、今思えば、これがきっかけだと思う。
いずれにせよ、その先生にはとても感謝している。

もっと深く、合氣を追究したいと思うようになった。
先生から三段を允可された後に、先生に相談した上で、並行して大東流合氣柔術の道場に通うようになった。

その大東流の流派は、型稽古が中心であった。
型稽古の中から合氣の極意を垣間見ようと試みたのだが、叶わなかった。
どうやっても、力技の域を出ることができなかったからだ。

いつしか、合氣道の稽古にも、惰性で通うような状態に陥っていた。
初心者や後進の指導が中心になり、愚かにも、自分自身の練磨や探究が疎かになっていたことに気付かなかった。

再び整体師という仕事が私の中に浮上して来たのは、ちょうどこの頃だ。
恩師に出逢い、整体のルーツが武術にあることを確信した私は、無茶を承知で転職を決意した。

転職した後は、時間的、経済的、精神的な余裕がまったくなくなり、稽古通いを断念せざるを得なくなった。
地べたを這うような毎日、悪循環にもがき苦しむ日々が何年も続いた。

そんな中でも、合氣道の先生から言われた「触れ合うことにより、相手を思いやることを学んで欲しい」という言葉だけは、忘れることがなかった。
整体も、まったく同じだと思った。

そのうち、少し余裕が出てきたので、再び稽古を開始することにした。
事情があったため、以前の道場には戻らず、別の道場を探し、通うようになった。

しかし、嬉しい意味で忙しくなり、夜間や休日に稽古に通う時間を取ることが出来なくなってきた。
再び稽古から足が遠のき、数年が経過した。

そして、今年の4月。
すぐ近くに、大東流合氣柔術の道場があることを偶然知った。
時間を見つけて、さっそく訪れた。

先生の手を取らせていただき、衝撃を受けた。
今までに味わったことのない「透明な力」を体感し、求めていたものがここにあると直感した。
即座に入門を決意した。

先生は、ホームページも持たず、ブログも書かず、Facebookもやっておられない。
なぜそんな先生を私が知り得ることができたのか不思議でならないが、先生は「これはご縁であり、必要必然なのでしょう」とおっしゃった。

たいへんありがたいことに、専用道場があり、早朝稽古に対応していただける。
求めていたものすべてを備えた先生と道場に出逢えた奇跡に、感謝するばかりである。

現在は週に二回、朝7時から稽古に通っている。
稽古を重ねるとともにいくつか関連書籍を読み、大東流合氣柔術と整体は、想像していた以上に深い関係があることがわかってきた。
おそらく合氣は、整体の極意でもあるのだ。

最初に私に合氣道をご指導くださった先生がおっしゃった「触れ合うことにより、相手を思いやることを学んで欲しい」という言葉が、実感をもって私の中に再浮上してきた。
合氣道開祖の植芝盛平先生が「合氣は愛である」と喝破されたのもうなずける。

といっても、私はまだ門をくぐったばかりに過ぎない。
合氣も整体も、すでに人生半ばを過ぎてから本格的に道を歩みだすという、散々な体たらく。
思えば、何事においても遠回りばかり、愚鈍でのろまな私である。

しかし、私は効率を求めないし、損得など考えもしない。
ソロバンをはじくようなことをして、本当のことが体得できるとは思わないからだ。

バカだと言われようが、下手くそだと罵られようが、私は私の道を行く。
道を行くこと自体が、幸せであるからだ。
人生とは道そのものであり、道程を楽しむことが何よりも大切だと思うからだ。

もし、この道をともに歩みたいという奇特な方がおられたら、ぜひ声をかけていただきたい。
整体を生業とできるよう、全身全霊を傾けて、お手伝いをさせていただく。